会員著書紹介
浅岡夢二著 『ボードレールと霊的世界』(人間幸福学研究会 2011年)
編著 浅岡夢二
出版年 2011年
出版社 人間幸福学研究会
体裁 四六版 243頁
ISBN 978-4-905437-02-4
価格 非売品(下記を参照ください)
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〒142-0041東京都品川区戸越1-6-7
人間幸福学研究会
松本智治(まつもとともはる)
tomoharu@99.alumni.u-tokyo.ac.jp
■ 目 次 ■
※「まえがき」と「あとがき」は、本書からの引用です。
まえがき …… B
序章を別として、本書には、ボードレールに関する文章を、執筆年代とは逆の順序で収録してある。すなわち、第1章「ボードレールの宗教観」は、二〇〇九年、著者五六歳の時、第2章「ボードレールと霊的世界」は、二〇〇〇年、著者四七歳の時、第3章「ボードレール覚書」のうち、第4節は一九八八年、著者三五歳の時、第1〜3節は一九八六年、著者三三歳の時に、そして第4章「ボードレールと鏡」は、一九八〇年、著者二七歳の時に、それぞれ書かれた。
序章の「仏法真理、そして神秘体験」は、本書のために書き下ろされたものである。著者が幼くして「死」に出会い、その不条理に苦しみ、いかにしてそこから解放されたかを、平易な言葉でわかりやすく語ってみた。本章を読めば、著者の神秘体験や宗教に関する議論が、単なる思弁、机上の空論ではなく、明証性を備えた実体験に基づく普遍的なものであることがわかるだろう。
「ボードレールの宗教観」ならびに「ボードレールと霊的世界」は、むしろ、著者の第一冊目の著書である『フランス文学と神秘主義』に収めるべき内容であるが、ボードレール論を集めて一書をなすという編集方針のもとに、本書の方に収められることになった。『フランス文学と神秘主義』と合わせて読んでいただければ、著者の言わんとするところがよりはっきり伝わると思う。
「ボードレール覚書」を書いた頃、著者の人生は最も危機的な様相を呈していた。この頃、著者は、拠って立つべき価値観、世界観が見いだせず、魂の夜の中、暗闇の底で呻吟していたのである。著者の人生の夜が明ける前の、最も暗い時期であった。かろうじて、「伝統」に生の根拠を見出そうとしているが、それにはどうしても無理のあることが、この「覚書」を読んでいただければわかると思う。「ボードレール覚書」の第4節を書いてから三年後に、著者は仏法真理に出会うことになる。
「ボードレールと鏡」は、明治大学大学院に在籍している時に書かれた修士論文である。いま読み返してみると、およそ「論文」とは言い難い代物だと感じられる。著者は、ボードレールの詩を材料として引用しつつ、散文によるもう一つの詩作品をつくろうと試みたとしか思われない。若書きゆえに、力みをともなう生硬な文章であるが、それでも、ところどころに、多少は切れ味のよいレトリックが見られるかもしれない。ちなみに、この“論文ならざる論文”は、意外にも、口頭試問において、指導教授の齋藤磯雄先生から、「私が、今まで読んだ修士論文の中で、最も優れた論文です」とのお褒めの言葉を頂いた。
これらの論文を通読すると、著者が、同じテーマを、時期によって、異なる視点から何度も繰り返し論じていることが分かる。著者が、ボードレールのどこに惹かれていたのかがはっきりするのである。
いずれにしても、異なる価値観に基づいて、異なるスタイルで書かれた文章を集めた、まとまりのない小著であるが、一人の人間がここまで変われることを証するために、そして、その人間の真剣な覚悟を示すために、敢えて世に問う次第である。
なお、「ボードレール覚書」、並びに「ボードレールと鏡」は、発表当時、正字、正かなで書かれていたが、本書収録に当たり、新字、新かなに改めたことを記しておく。
序章 仏法真理、そして神秘体験…… 1
第1章 ボードレールの宗教観……11
1 はじめに─ボードレールの本質─
2 ボードレールの宗教観の諸相
3 伝統的カトリックから逸脱する側面
4 おわりに─未来への希望─
第2章 ボードレールと霊的世界……73
1 〈言葉〉と〈実在〉
2 臨死体験(パノラマ的回想体験)
3 臨死体験(体外離脱)
4 「異邦の薫り」
5 「飛翔」
6 想像力、あるいは〈魂〉の最大の力
7 万物照応
8 霊の実在、あるいは祈り
第3章 ボードレール覚書……131
1 伝統、あるいは綴字法
2 紋切型と奇異
3 時間について
4 不充足の詩学
第4章 ボードレールと鏡……173
1 鏡の三つの機能
2 美と鏡
3 想像力と鏡
4 ハシッシュと鏡
5 自意識と鏡
6 恋人たちと鏡
7 芸術家と鏡
エピローグ
あとがき…… 239
まことに、まことに、遅々たる歩みであったと思う。
しかし、一方で「ボードレールと鏡」から「ボードレールの宗教観」まで、実にはるか遠くまで歩んできたものだとも思う。
亀のごとき歩みであっても、努力・精進を続ければ、こうしてはるか遠くまで歩んでこられることに、いま、ある種の深い感慨と、大いなる希望を感じている。
私は、ここで、シモーヌ・ヴェイユの次の言葉を思い出す。彼女は、「どんな人でも、たとえ生まれつきの能力がほとんどなくても、ただ真理を望んで真理に達するためにたえず努力し注意を払いさえすれば、天才だけがはいるあの真理の国にはいることができる」と言っているのだ。
私はもともと凡庸極まりない人間であるが、それでも、こうして、努力に努力を重ねて、ようやく真理の王国に入ることができた。
つまり、どんな人でも真理の王国に入ることは可能なのだ。それを、ここで確認しておきたいと思う
また、私は、ボードレールの次の言葉も思い出す。「進歩(真の進歩、即ち精神上の進歩)は、ただただ、個人の中にしか、また個人自身によってしか、あり得ない。進歩の法則が存在するためには、各人がその法則を創造しようと望まなければなるまい。つまり、すべての個人が進歩しようと専念する時、その時こそ、初めて、人類は進歩するであろう」
私は、この箇所を「ボードレール覚書」において、ボードレールの反進歩主義を論ずる際に引用したのだが、一方でまた、この箇所は、「ボードレールの宗教観」で示したように、苛烈なペシミストによって人類進歩への希望が述べられている一文として読むこともできる。すなわち、人類の一人ひとりが進歩しようと望み、努力するならば、人類全体が進歩するだろう、ということなのだ。
そして、ジュリアン・グリーンも指摘しているように、人類が進歩して「人類の幸福」が実現されれば、それがすなわち「ユートピア」である、ということになる。
本書は、地球ユートピアを心の底から希う一人の真理探究者によって書かれた。
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